他力本願

アンタッチャブルを乗り越えて、宗教の話。

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最初に断っておくが、筆者は無宗教である。

ここでいう無宗教とは、無神教だとか、宗教の否定を意味しない。
クリスマスには七面鳥とケーキを食って、正月には初詣に行く。
単にそれらを宗教的意義から解釈していないというだけだ。
ハロウィンとクリスマスとバレンタインを同列に扱っているわけである。

ひょっとすると罰当たりなのかも知れないが、いまのところキリスト教の信者から、
「洗礼を受けてないならクリスマスにケーキ食うのやめろよ」
とか言われた事は無いので、べつだん問題意識は感じていない。

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S市の事前合宿に市長が挨拶に来て、カメラの回る前で熱く語ってくださった。
市の良いところ、人の良さを紹介する文脈で、市長は宗教をその理由に挙げた。
曰く、市内には宗教の総本山が二つあり、まあつまり特徴的だということだ。

この話が始まった途端、テレビ局の一部はカメラを引き上げ始めた。
番組素材として使えないネタだからだろう。
対する市長は、特に気にした様子も無く、市民の魅力について語り続けていた。

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どんな宗教なのかと調べてみたところ、浄土真宗の宗派なのだそうな。
いわゆる南無阿弥陀仏だ。

実は個人的なご縁で、毎年、本願寺派の寺院に通っている。
大晦日に、除夜の鐘を突くためだ。

雪積もる寒い中、整理券を貰って並んで、楽しくも厳かに鐘を突いたあとは、
甘酒を戴いて、お蕎麦を戴いて、そのまま初詣に向かうわけである。
神仏習合の次元を超えて、単なるお祭り好きの道楽になっていることは否定できない。

それでも実務上はどの宗教も寛容なもので、暖かい寺院の中に入れて貰っては、
偉いお坊さんが有り難い話をしてくださるのを、毎年うつらうつらと聞いているのだ。

浄土真宗の宗派同士は、対立は特に無く、細かい作法が違うだけだという。
それくらい他の宗教とも仲良くすれば良いのに、と思うけど、そうもいかないようだ。

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浄土真宗は、他の仏教宗派と互換性が無い。

うちの家は禅宗なので、般若心経を唱えるのだが、
これは浄土真宗の教えに反するらしい。いい事言ってるんだけどな。

それどころか、神棚もお札も占いもおみくじも、教えに反するので、
やったら罰するって程ではないけど、「やらないほうが良い」と言われている。

「万物に神宿る」という神道の素晴らしい概念と比べると、排他的なのは勿体ないなあと思う。

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そもそも浄土真宗が何なのかというと、
「とりあえず【南無阿弥陀仏】ってだけ言えば救っちゃる」という太っ腹なものらしい。

じゃあなんでそんなに排他的なのかというと、
「他のややこしい儀式が広まったらめんどくさいだろ」ということなのだそうな。

まあ本当は、阿弥陀如来一仏、つまり、浮気はダメよっていう一神教の理屈なのだけど、
戒めは無く、僧侶は肉食ってもいいし、結婚してもいいよって程度のゆるさなので、
どちらかというと、「宗教が濫立すると生活がシンプルじゃなくなる」ってほうが、
実態に即した理由なんじゃなかろうかという気がしてくる。

と解釈すると、「Keep it simple, stupid」という信条とは、互換性が確保できる。
これはコンピュータ・サイエンスの中で語られる、法則というか、方法論だ。

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で、教えを単語にまとめたのが「他力本願」らしい。

「他力」ってのは、「自力で悟りを開くのは大変だから阿弥陀さまに頼っておけ」ってことで、
「本願」ってのは、「欲望のことじゃなくて仏になること」らしいんだけど、
これはぶっちゃけ、文字の選び方が悪いんじゃなかろうかと思う。

結局「他人任せ」という意味に捉えられて、浄土真宗はそれを否定している訳だけど、
果たして「他人任せ」という意味は間違いなのだろうか。
結局、阿弥陀さまに頼ってんじゃん、他力本願寺じゃん、って思う。

それに、別に他人任せでもいいと思うんだよな。
そのほうが選択として優れていると信じているからこそ、そうしているわけだし。

思うに、「自分が努力していない」と思われるのが不服なのではなかろうか。
否、浄土真宗の人は「他力本願」を実現するためにこそ、物凄い努力をしているのだ。
葬儀の作法なんかを読むと、最も多く書かれているのは、
「しろ」でも「するな」でもなくて、「しない(しなくて良い)」という説明なのだ。

物事をシンプルに保つためには、相応の努力が必要というわけである。

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地方創生の主役は誰なのか、と考える。

自分の意見としては、主役は間違いなく、田舎のジジババである。
若者は、田舎が住みにくくなれば都会に出るだけなので、別に危機感は無い。

だから「外から若者を呼び込んで何とかして貰おう」ってコンセプトは、
すごく他力本願に見えて仕方が無かったんだよなあ。

S市の姿勢は放任主義ではなく、徹底的に支援を行っていた。
二日続いた事前合宿の後半では、「ゆるいということは許容すること」と打ち出し、
「よそ者を受け入れる田舎」として、他人の活躍を引き出すという立場を崩さない。

もしや、これこそが、真の「他力本願」によって培われた手腕なのかも知れない。
若者に次代を託すために、日々地道に努力しているからこそ、許容が成り立つのだ。

うーん、南無阿弥陀仏。

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